御祭神
息長足姫命(神功皇后)
主神 誉田別尊(応神天皇)
竹内宿禰命
由緒
鳩ヶ嶺八幡宮は古く伊那郡伊賀良庄島田郷、現在の飯田市松尾に鎮座し、島田八幡宮と称されてきました。
伊那谷の名社として近郷に広く崇敬 されて「八幡の八幡様」と呼ばれて 親しまれています。
鳩ヶ嶺八幡宮は古く伊那郡伊賀良庄島田郷、現在の飯田市松尾に鎮座し、島田ハ幡宮と称されてきました。同社の歴史は古く、伊那谷の名社として近郷に広く崇敬され、その地が八幡であることから「八幡の八幡様(やわたのはちまんさま)」と呼ばれています。中世の伊那郡伊賀良庄は鎌倉幕府の有力支族たる江馬北條氏によって支配された地域であり、当初の八幡宮は山城の国より石清水八幡を勧請して穴八幡としてお祀り申し上げたのです。その間に於ける、江馬氏によるこの地域の文化的開発と向上は顕著なものであり、この事績には鳩ヶ嶺八幡宮の造営と禅刹開善寺の創建があります。この二つは北條氏没後に於いても、この地の地頭であった小笠原氏によって厚く護持崇敬されてきました。なお、小笠原氏は建治三年(一二七七)より弘安十一年(一二八八)までに松尾城の北、現在の位置に八幡宮の社殿を造営し、ここに御遷座申し上げました。伊那地方中世の武家代表格である小笠原氏が代々鎮守の神と崇め奉り、冠婚の式等は此の社前にて行われ、十七代、四百六年間は松尾城主としての此の八幡営を崇敬し、その建築修理、営繕等みな領主小笠原氏の寄進と領内氏子の信奉とにより行われてきました。以来、伊那の領主は毛利、京極、脇坂、堀氏と代わりましたが、皆この神社を崇敬祈願し護っています。文教の家元、即ち学問教育、弓道、諸礼式の宗家として名声を天下に上げた文化の家小笠原氏と村民とは、直属の氏子として四百余年間、平和裡に親密な関係を保ちました。このように文化生活に浴し得たのは、その治績の功と言わねばなりません。
八幡様とは第十五代応神天皇の御神霊で、仲哀天皇の皇子で御母君は 神功皇后であり別名を誉田別尊と称えます。天皇は深く内外の政治に大御心を用いられ、文学を奨励し或いは殖産興業を盛んにし或いは多くの池溝を開き灌漑の便を計り又、大船を造られ、海外との交通の道を開かれ、大陸の文化や産業を取り入れ新しい国造りを進められる等、英明幸達であると共に御神徳も高く、皇室では天照皇大神につぐ御祖神として崇敬せられ、また神功皇后は母神として神人交歓、安産、教育などの御神徳も高く、皇室のみならず、一般民衆にも厚く信仰されました。特に第五十代桓武天皇は、遷都した平安京の鎮護として宇佐八幡を勧請して石清水八幡宮を創立し源頼朝は鎌倉幕府の鎮守として鶴ヶ岡八幡宮を建立するなど、地方の領主もこれまた領内の鎮守として八幡宮を勧請するよぅになりました。そもそも八幡信仰は応神天皇の御聖徳をたたえるだけでなく海外の文化や産業と共に仏教信仰と日本古来の神道を統合した信仰により国体の擁護と人心の統一を行わしむるものとして大きな影響を与えて来たものといえます。
当宮は古来穴八幡宮と申してきましたが、正嘉元年(一二五七)十二月、 現在の位置に遷宮、以来島田八幡宮と称していましたが、明治に至り村社八幡神社とし、明治三十三年四月に伊那谷で最初の県社に昇格。昭和二十四年七月七日社名を鳩ケ嶺八幡宮と改称しました。
当鳩ヶ嶺八幡宮の御神体で昭和三十三年二月八日、国の重要文化財に 指定されました。等身大の衣冠束帯の木像座像でそのご容姿は端厳、眼光けいけいとして侵し難い威厳に溢れています。この御神像は鎌倉時代の名工の技になるもので我が国でも数少ない神像中の優作として美術的にも日本彫刻史上にも重要な存在であります。座像胎内にある墨書には、造営に十二年を要したこと、仏道修行に精進して、人の道、仏の道を覚つたなどが記されています。